江戸文字とは・・・・ 

 江戸情緒豊かな、提灯や千社札(せんしゃふだ)に使われる文字を総称して 『江戸文字』 と呼ぶが、

 << 勘亭流 / 江戸文字(千社文字) / 相撲字 / 寄席文字 >> と広く江戸時代に生まれた文字を総称して

  広義に 『江戸文字』 と呼んでいる。                              

■御家流(おいえりゅう)

 
  江戸情緒豊かな、提灯や千社札(せんしゃふだ)に使われる文字を総称して『江戸文字』と呼ぶが、
 広く江戸時代に生まれた文字をすべても同様に呼ばれる。

 その母体は『御家流』または、『青蓮院流』(しょうれんいんりゅう)と呼ばれる和風の書道に一派であり、
 始祖は粟田口青蓮院流の門跡(もんぜき)、尊円(そんえん)法親王といわれる。小野道風、藤原行成の書法をとりいれ、
 力量感のこの書体は江戸時代の公文書に用いられたところから御家流の呼称がある。
 諸藩の祐筆は我流の崩し方をしないように、統一する目的で手習いの手本にしたものである。

 『青蓮院流』は、和様書道の一派で、伏見天皇の皇子・青蓮院尊円親王が創始。上代様に基づく力強く豊満な書体である。
  徹斎はその筆致に堪能だった。上洛するたびに習い、むしろ公卿のあいだにその名筆ぶりが知られていたという。

    尊円親王(そんえんしんのう)
    1298年生 1356年没
    伏見天皇の第6皇子 俗名、尊彦、守彦  書と和歌に秀でる
    1310年 親王となる
    1311年 剃髪 17世青蓮院門跡 天台座主
    世尊寺行房・行尹に世尊寺流の書を学んだのち、小野道風や藤原行成の書、中国の書風を取り入れた
    青蓮院流(後の御家流)を確立
    著作「入木抄」 筆跡、「大覚寺結夏衆僧名」

 

●勘亭流

 
  華麗な歌舞伎の文字を演出している勘亭流は、江戸文字全般の源流であるお家流にもっとも近い形態を残している。
 浄瑠璃の床本など奥向きの文字が看板に合うように工夫され、使われたのが安永八年(1779)。
 御家流の書道指南をしていた岡崎屋勘六が、中村座の依頼で 『御贔屓年々曽我』 という大名題を鳥居清長の
  絵看板につけた。

 これが評判を呼び、勘六の俳号「勘亭」から勘亭流と呼ばれるようになった。看板の勘亭流はこの後、

 澤村利兵衛−三禮堂清忠(三代目鳥居清忠)−石井三禮−荒井三禮−二代目荒井三禮(1998没)と受け継がれた。
 1997年まで歌舞伎座の筋書きを担当していた絵師保坂光亭(1997没)は石井三禮−荒井三禮の流れの中に位置している。
 又、奥向きの文字は台本の書き抜きや楽屋の到着版などの需要から作者部屋に伝わり三禮堂清忠から河竹黙阿弥−
 竹柴済吉−竹柴鴻策−竹柴蟹助(1989没)へと残っていった。ここからもうひとつの流れができ、劇作家の川尻清潭から
 現在江戸勘亭流をつたえる小山観翁へと広がっている。

 現在は、小山観翁、荒井三鯉、伏木寿亭の三氏は後進の指導のために教室を各所で主宰している。


●江戸文字

 
  今でこそ『江戸文字』と簡単に呼ばれるようになったが、この呼び方は、もっとも歴史のある納札交換会『東都納札会』が
 昭和二十二年頃より使い始めたものである。
 文字の宝庫といわれた江戸に生まれ、そこで発達し、それぞれの世界に定着し、江戸の庶民たちの生活の中に取り入れられ、
 独特のスタイルを確立していった書体を呼称するのが妥当であろう。

 江戸末期の浮世絵師、梅素亭玄魚・書家名「田キサ」、歌川芳兼、書家名・「田てう」らが提灯や千社札に用いた力強い
 書体・力(ちから)文字が、町火消しの纏(まとい)や半纏(はんてん)などの染物の文化の中で熟成され、洗練されてきた。
 この書体が、明治大正になって、題名納札(だいめいのうさつ)(千社札)の大家である「太田櫛朝」、
 提灯や千社札の意匠の達人である初代と二代の「高橋藤」という三大名人たちによって確立された。

 櫛朝の流れをくむ「鈴木本和」亡き後、いたずらにこの呼び名を名乗るものが増えてきてしまった。
 代々の書き手たちが築いてきたものを真似するのみで、心ない贋物(にせもの)が横行するようになったのも、
 この文字の人気の証かもしれない。

 現在、東都納札睦を主宰する関岡扇令師の薫陶よろしく、橘流寄席文字一門は、家元橘右近(1995没)の生涯の趣味
  「千社札」の文字を正しく受け継ぐべく、研鑽努力をしている。
  また、平成14年夏より、橘右橘が近年の江戸文字の乱れを正すために、本筋の資料を元に江戸文字を研究するための
  「江戸文字研究会」発足させ、正統派の江戸文字の継承に心を注いでいる。

 

●相撲字

 
  江戸の相撲番付が刊行されたのは宝暦(1751〜1763)頃と言われている。
 相撲字は、今でこそその世界を表す猛々しさの個性を持っているが、江戸末期までは太い御家流で書かれた番付が
 残っている。

 根岸家という番付専門の版元ができ、ここに兼吉という人がいて、現在のような力強い書体になったものという。
 今は、代々、行司に必須科目として伝えられ、中で達者な人が番付を揮毫(きごう)することになっている

 特徴としては、他の江戸文字と異なり、筆のかすれやささくれを嫌わず、むしろ個性として尊重するところ。
 
 近年の名人は、式守勘太夫から年寄り鏡山を襲名した故・岡村熊太郎である。
 栃若から柏鵬という黄金時代の番付を、その力強い筆跡で飾った。
 そして式守与太夫から、平成12年1月までは『現30代木村庄之助』(当時は木村容堂)が、伝統をいかしつつ現代にもあう文字を
 書いており相撲雑誌で添削も連載する人気を博していた。
 
 平成12年2月からは、『式守與之吉』が書いている


●寄席文字
       

 天保年間(1830〜)寄席が隆盛になったころ、神田豊島町藁店に住む紺屋の職人栄次郎が、客席が大入りに
 なるようにという縁起を担ぎ請われて書いた<ビラ>がその起こりである。当初はもちろん手書きであったが、
 江戸市中に二百軒あまりの寄席ができた安政年間(1854〜)、需要に応じて木版手摺りの版行ビラが出てきた。

 これを専門とする、初代、二代のビラ清、ここから分かれた初代、二代のビラ辰を中心に多くの、ビラ屋が昭和初年まで
 繁盛してきた。途中大震災と戦争を経て、寄席自体もビラ屋も大きな打撃を受け、ついには版行ビラは途絶えることと
 なってしまった。

 この二代目ビラ辰の前座としての橘右近がたびたび使いに行ったのが、今日寄席文字としてこの書体がのころきっかけ
 となる。詳しくは著者をはじめ多くの文献にでているところ。「ビラ字」と呼ばれたこの文字を、「寄席文字」として再び興し、
 寄席文字勉強会に始まる一連の教室の中で、名取の弟子も16名を数え、文字のみの伝承でなく、
 寄席を脇から応援しつづけてきた橘右近の足跡を追いつづけている。


(〜揮毫、解説とも〜橘右橘:<江戸文字のしおり>より転載許可済)

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